INTRODUCTION

母国からはるか遠く、
少年の挑戦は始まった――
わずか8歳で母国バングラデシュを追われたファヒム。母親と引き離され、父親と二人でたどり着いたのはフランス・パリだった。亡命者として政治的保護を求めるも、言葉も文化も違う異国ではなかなかうまくいかない。そんな時、故郷でチェスの天才と呼ばれていたファヒムは、フランス国内でも有数のトップコーチであるシルヴァンと出会う。国籍も年齢もかけ離れた師弟は、ぶつかり合いながらも信頼関係を築いていく。しかし、一方でファヒム父子の亡命は認められず、強制送還の脅威にさらされることに・・・。解決策はただ一つ。ファヒムがチェストーナメントでフランス王者になることだった。
その才能で人生を掴む!
フランスが生んだ奇跡!!
主人公ファヒムを演じるのは、撮影3ヶ月前にバングラデシュからフランスに移住したばかりのアサド・アーメッド。自身の体験も織り交ぜながら、瑞々しい演技力でファヒムを見事に体現している。また、コーチのシルヴァンに、フランスを代表する名優ジェラール・ドパルデューが扮し、師としての包容力、優しさを時に激情を交えファヒムを導いている。監督は、俳優としても活躍するピエール=フランソワ・マルタン=ラヴァル。コメディを多数手がけてきたピエールが、“実話ドラマ”という初のジャンルに挑戦。真摯な演出で観客の胸を揺さぶる。
自らの手で、未来を切り拓いた
小さな巨人の奇跡に満ちた感動の実話!

STORY

政変が続くバングラデシュ・ダッカ。親族が反政府組織に属していたことに加え、ファヒムがチェスの大会で勝利を重ねていたことへの妬みが原因で、一家は脅迫を受けるようになっていた。身の危険を感じた父親は、わずか8歳のファヒムを連れてフランス・パリへと脱出した。

難民センターに身を寄せた父子は、フランスでも有数のチェスのトップコーチであるシルヴァンと出会う。独特な指導をするシルヴァンにはじめは苦手意識を持つファヒムだったが、厳しくも愛情あふれた熱心な指導に、次第に心を開き、チェスのトーナメントを目指して信頼関係を築いていく。

しかし、一方で、難民申請を却下されたファヒムの父親は、身の置き所がなくなり姿を消してしまう・・・。迫りくる強制送還までのタイムリミット。その脅威から逃れる解決策はただ一つ。ファヒムがチェスのフランス王者になることだった――。

CAST PROFILE

ファヒム・モハンマド:アサド・アーメッド
Fahim Mohammad:Assad AHMED
2003年10月2日、バングラデシュ生まれ。
本作でスクリーン・デビュー。キャスティングのわずか3ヶ月前にバングラデシュから渡仏した。本作の後、インド映画“Dabangg 3”(19/プラブ・デーヴァ監督)に出演している。
シルヴァン・シャルパンティエ:
ジェラール・ドパルデュー
Sylvain Charpentier:Gérard Depardieu
1948年12月27日、フランス生まれ。
67年にロジェ・レーナルト監督の短編“Le beatnik et le minet”でスクリーン・デビュー。73年、ベルトラン・ブリエ監督作品『バルスーズ』で注目され、82年に『ダントン』(アンジェイ・ワイダ監督)に出演し83年の第18回全米批評家協会賞主演男優賞を受賞する。その後も、85年に『ソフィー・マルソーの刑事物語』(84/モーリス・ピアラ監督)で第42回ヴェネチア国際映画祭金獅子賞に輝くなど多数の映画賞を受賞し、88年にはレジョン・ドヌール勲章を受賞。90年に主演した『シラノ・ド・ベルジュラック』(ジャン=ポール・ラプノー監督)では第63回アカデミー賞®主演男優賞にノミネートされ、第43回カンヌ国際映画祭主演男優賞を受賞するなど、フランスを代表する俳優の一人として、97年には第54回ヴェネチア国際映画祭金獅子賞・特別功労賞受賞を果たした。
マチルド:イザベル・ナンティ
Mathilde:Isabelle Nanty
1962年1月21日、フランス生まれ。
83年にミシェル・カピュト監督作品“Les planqués du regiment”で映画デビューを果たす。91年、第16回セザール賞有望女優賞にノミネートされた『ダニエルばあちゃん』(90/エチエンヌ・シャンティリエ監督)で注目を浴びる。その後、02年に第27回同賞で最優秀作品賞を受賞した『アメリ』(01/ジャン=ピエール・ジュネ監督)、アラン・レネ監督作品『巴里の恋愛協奏曲』(03)では04年に第29回同賞で助演女優賞にノミネートされる。ピエール=フランソワ・マルタン=ラヴァル監督とは、舞台で仕事を共にしたこともある。

STAFF PROFILE

監督・脚本
ピエール=フランソワ・マルタン=ラヴァル
Directed & Written by Pierre-François Martin-Laval
1968年6月25日、フランス生まれ。 97年にロナン・フーリエール=クリストル監督の短編“Le collecteur”で俳優としてデビュー。96年から06年まで劇団レ・ロバン・デ・ボワを主宰する。その間も『シリアル・ラヴァー』(98/ジェームズ・ユット 監督)、『橋の上の娘』(99/パトリス・ルコント監督)など映画やTVシリーズへの出演を重ね、06年に共演者にジュリー・ドパルデューを迎え自身が主演を務めた“Essaye-moi”で監督デビューを果たす。これまでのその他の監督作品に“King Guillaume”(09)、“Le Profs”(13)、“Le Profs 2”(15)、“Gaston Lagaffe”(18)などがある。
音楽
パスカル・ランガニエ
Music by Pascal Lengagne
00年に初めて映画音楽を担当した短編“Week-end à Tokyo”(ロマン・スロコンブ監督、ピエール・タッソ監督)で第20回クレルモン=フェラン国際短編映画祭で最優秀作曲賞を受賞する。その後、TVシリーズや短編の音楽を多数手がけ、15年にパスカル・エルベ監督作品”Je compte sur vous“で長編に携わる。その他の作品に『スクランブル』(17/アントニオ・ネグレ監督)などがある。ボーカルリムーバーは音楽のポストプロダクションで使われた。
撮影
レジス・ブロンドゥ
Cinematography by Régis Blondeau
91年に短編“La dernière tentation de Chris”(パトリック・マラキアン監督)で初めて撮影を担当する。翌92年にジャン=ピエール・ベコロ監督作品“Quartier Mozart”で長編を手掛け、その他の主な担当作品に『バルニーのちょっとした心配事』(01/ブリュノ・シッシュ監督)、『マダムのおかしな晩餐会』(16/アマンダ・ステール監督)など。ピエール=フランソワ・マルタン=ラヴァル監督作品の撮影は、デビュー作から全作品担当している。

INTERVIEW

本人インタビュー / ファヒム・モハンマド Fahim Mohammad  チェスは常に、僕の生活の中心にありました。僕に起きたことは、いいことも悪いことも、ほとんど全てチェスが原因です。6歳の時にバングラデシュで命に危険が及んだのは、僕がチャンピオンになったことへの妬みのせいでした。一方で、父と僕がフランスで身分証を取得できたのは、チェスのトーナメントで勝ったからです。チェスのおかげで人生と自由を手に入れることができ、僕の半生を語る本が出版され、僕の名前が冠された映画ができたのです。

 想像もしていなかったことです。これまで経験してきたことは、何も持たずに母国を出たときに僕が考えていたことを遥かに超えていることは確かです。

 ただ、“Un roi clandestine”(ファヒムの書籍/「もぐりの王様」という意味)が僕の人生を変えたかどうかと聞かれたら、「いいえ」と答えます。僕の人生を変えたのは、12歳以下のチェスのフランスチャンピオンのタイトルと、その後の多くの出会いです。次にフランスの身分証を取得したこと。書籍には、路上で生活する亡命者や移民に対する世間の目を変えたいという想いが込められています。

 書籍をベースに映画を作ると聞いたときには驚きましたが、特に感動はしませんでした。連絡があった当時はまだ14歳で、それがどういうことを意味するのか、いまいち分かっていなかったんです。小さなドキュメンタリーを作るんだろう、と勝手に想像していましたが、まさか、こんなに規模の大きな映画だとは思ってもいませんでした。

 映画を観たときは感動しましたが、同時に少し奇妙な感じでした。すべて、僕が経験してきたことなのですが、自分のことのように思えませんでした。物語は大枠において僕のものですが、映画のファヒムは僕そのものというわけではなかったからでしょうか。適応や教育のシーンは、当時のことを思い出しました。例えば、ナイフとフォークを使って食事をする練習や約束の時間に遅れて怒られるシーンなどです。時間に遅れるのは、残念ながら今でもあまり直っていません(笑)。チェスクラブや学校の友達の家にファヒムが招かれるシーンにも思い当たることがあります。似たような温かい経験をしてきました。ジェラール・ドパルデューが演じる僕のチェスの先生、グザヴィエ・パルマンティエとも同じような経験をしました。グザヴィエはとても寛大な人で、僕は、何ヶ月もの間彼のチェスクラブでゆっくりと眠らせてもらいました。このエピソードは映画の中にはありませんが、グザヴィエの優しさと父性はしっかりと伝わると思います。

 当然ながら、映画にするうえで必要な“フィクション化”されたシーンについては、自分から遠く感じました。例えば、父と僕は他のバングラデシュ人とテント村のようなところでコミュニティを作って暮らしたことはありません。でも、そういう細かいことは問題ではなく、僕の人生の基本的なことは『ファヒム パリが見た奇跡』で語られていますし、この映画をとても好きです。映画がすべて僕の実体験通りだったら、困惑して嫌気がさしていたと思います。
 僕の父はとても慎重で秘密の多い人です。自分の立場を隠すためならなんでもしていました。僕を守りながら、僕からは離れているフリをしていたんです。フランスでの最初の数年間は父にとって地獄のようでした。政治亡命の申請を拒否された時、父は路上生活を始めました。仕事もなく、身分証もありませんでしたが、僕をチェスクラブに連れて行き、見つかるかもしれないリスクを冒しながら何時間も待っていました。父は僕よりもずっと辛い思いをしていましたが、不平不満を言っているのを聞いたことはありません。僕には友達がいて、彼らと話し、彼らの家に泊まり、チェスをプレーしていました。逃げ場があったんです。父は何日もの間、何もせずに過ごし、誰とも話さず、そのためにフランス語も上達しませんでした。僕は父が大好きで尊敬しています。バングラデシュで子どもの僕をチェスのトーナメントに連れて行ってくれたのも父でした。命の恩人でもあり、すべては父のおかげです。映画では、ファヒムに対する父親の愛情をとても感じることができるので、とても満足しています。僕自身が、ここ数年間父に対する愛情表現をできていなかったことを取り戻せたような気がしています。

 この映画がどのような運命を辿るのかは分かりません。書籍同様、移民に対する世間の目を変えることに貢献してくれることを願っています。僕よりも辛い思いをした人もいます。映画では、悲惨なことだけではなく美しいことも語られているので好きです。最終的には、みんなが困難を乗り越えます。また、チェスが頭脳的ではなく冒険的なゲームとして描かれているところも好きです。チェスを知らない人にも楽しんでもらえると思います。

 (2019年に)バカロレア(高校卒業試験)に合格して、商業学校に入学しました。資産管理か国有財産の管理の仕事をしたいです。

 人々の期待には反しますが、人生全てをチェスに捧げようとは思っていません。何人かの偉大なチャンピオンのように正気を失いそうで怖いからです。だから、数ヶ月前にチェスの練習を休むことにしました。段階的に再開するつもりではいますが・・・。
 今、僕は落ち着いています。路上で寝ていた頃のことを考えることもなくなりました。前に進みながら生きようとしています。

 フランスには残りたいと思っています。僕を受け入れてくれた国に感謝していますし、父も息子の名前を冠した映画ができたことをとても誇りに思い、感謝しています。

現在のファヒムの状況
2019年で、フランスに入国してから11年が過ぎたものの、ファヒムも父親も未だにフランス国籍を取得できてはいません。18歳になるまで、ファヒムは、他の外国籍の子どもたちと同じように滞在許可証を持つことができませんでしたが、19年に成人となり、ようやく取得できました。しかし、最初の滞在許可証の有効期限はたった1年です。ファヒムの父親の滞在許可証は4年間有効のものに更新されました。
滞在許可証があればフランスで就労でき、国外旅行も可能です。ファヒムは入国からずっとフランスを離れる権利がなかったので、大きな一歩であることは確かです。しかし、フランス国籍を取得するにはさらに5年が必要です。
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